2008年12月24日

コミュニケーション


world is beautiful

映画Dollsを観て思った。


最近のアートの中では
「communication」というキーワードが重要視されている。
デザインは前々からコミュニケーションだと言われていたような気がする(?)


普段制作するとき、クリエイターは外界との接触をやめ、孤独になる。
つまり、その状態は自己と外界の状態は「discommunication」になる。

制作において、
その「discommunication」の状態を濾過して作られたもので
他人と「communication」をとろうとする矛盾がある。

・・・・・。


今はまだここまでしかまとまりませんっ。
投げっぱなしだけど、自己満だけど、
・・・・・・・・
終わり。

ラベル:

新しい表現について



晴れのちふわふわ


デザイナーだったりアーティストは
新しいものをつくるという宿命をもっている、と言われる事がある。

最近自分が制作しているときに
今までなかったものを作りたい、と考えることもある。
しかし、今世の中にあるもので出尽くしている感じがしないでもない。

パソコンが誕生して、それがクリエイションに使われ始めたときは
今までアナログでは表現できなかったことが表現できるようになった。
パソコンを使って作れば、それがすべて新しい表現になった時代があったと思う。

でも、今みんな当たり前のようにMacを使うし
逆に使えないとハンデキャップを背負う部分もある。
パソコンを使ったら、作ったものが新しいと思える時代では、もうない。

では、どうすれば今までにない新しい表現を作る事ができるのか。


ひとつめ。
新しい技術だったりソフトウェアの誕生。
デザインとはテクノロジーと近い関係にある。
上述したパソコンの誕生のように、新しい技術だったり、ソフトがでれば
それを使って新しいものがつくれるはず。


ふたつめ。
新しい視点でとらえること。
ここでは、D-BROSSを例にあげる。
僕はD-BROSSが好きだ。
でも、周りにもファンが多いので好きと言うことに、違和感を感じる。
彼らの作るものはかわいらしかったり、フェミニンなものが多いので
特に女性のファンが多いように思う。
確かに表面的な部分で捉えても、自分の趣味に合う部分もある。
しかし、一番好きなのは彼らの考え方。
ジェネラルグラフィックとプロダクトの違いは、僕自身はっきり区切ることができない。

考え方というと、今までプロダクトになかった「平面の概念」をプロダクトに持ち込んだことが新しいと思う。

たとえば、水を入れると花瓶になるフラワーベース。
紙に長針と短針がついている時計。
ミラーになっているコーヒーカップ。
これらは、プロダクトデザイナーとは違う視点を持っているグラフィックデザイナーだからこそ、作れたものだと思う。

違うフィールドのものを自分のフィールドに持ち込んでくる。
こういう多角的な視点をもつことで新しいものができると思う。


みっつめ。
空間をかえる。
音楽はもともと家でレコードだったりラジオで聞くものだった。
それがウォークマンの登場で、音楽を家の外へ持ち出す事ができるようになった。
この出来事は画期的で新しい事だと思う。

今までの規定された空間での表現を
別の空間において表現する。

これも新しいといえるのではないかと思う。


創造力とは「A+B=C」で表されるように
何かと何かをくっつけることだと言われている。

新しいものっていうのは
何かと何かの隙間にあるもの
という感じもする。


「新しい」と何度も言ってきたけど
新しいことが全てではない気もする。

今までに無いものをつくる、ということは
それはそれで充分賞賛に値する事だと思う。

しかし、そのもののバックボーンに何も無ければ
「ただの単なる過去になかったもの」にしかなりえない。
そこには、クリエイターの社会に対する視線だったり、哲学がないと
誰も共感できないし、残っていかないと思う。


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自分が新しいものをつくれてもいないし
つくろうという気もバリバリある訳ではないけど
講評とか友達と話していて考えていたから、メモ。

こんなことばっかり考えていると手が止まるので
今の段階ではそこまで意識しないことにする。
自分の中での目的意識は、今現在そこにはないから。


前回に引き続き批評みたいなことを書いたけど
他人とか社会を否定する気は、さらさらない。
肯定もしないけど。

ひとそれぞれでいいじゃん。
人生いろいろ的なスタンス。

ラベル:

2008年12月23日

利便性とインターネットについて



インターネットって便利だなって思う。
技術の進化により距離と時間の関係ががらりと変わった。
家にいても世界中の情報が手に入るし、
チャットとかスカイプとか
知り合いとかといつでも連絡がとれるようになった。
それぞれに長所と短所があるのはもちろんのことだけど
僕はインターネットの恩恵を随分うけていると思う。

でも、ほんとにこのままでいいのかなぁとか思う事もある。

世の中はどんどん便利になっていく。
便利になることが悪いことだとは思わない。

携帯電話だったり、ipodだったり、パソコンだったり
生活を便利にしてくれるものはたくさん出てきた。
でも、便利になったら生活が豊かになるとは限らないんじゃないかな。
繰り返すけど、「利便性=豊かさ」ではないということ。

逆に便利になることで、無くしていくものもあるはずだ。

例えば、スーパーでの「レジ袋いりませんよカード」。
レジに並んだときに、買い物かごにこのカードを挟むと
店員さんが袋を入れてくれないというもの。
言葉を話す労力を使わなくていいのだから便利なカードかもしれない。
でも、それくらいのことをカードを使わずに
口に出して言えばいいと思うし、
カードが人を豊かにしてくれるかというと、その逆だと思う。
カードを使う事で人との会話というコミュニケーションがなくなってしまった。

便利になって、人の生活が豊かになったものもあると思う。
でも、すべてがすべてそういうわけにもいかないんじゃないかな。

時代は不可逆だから
今から原始時代に戻ろうなんて言ったって、それは無理な話で
そんなことを言う気もさらさらない。

ただ、利便性とか合理性という大義名分の名のもとに
盲目的に変化を信じることはいかがなものかと。


skypeとかtwitterとかで友達と無料で連絡をとったりできるのはすごいいいことだと思う。
インターネットって、本来ひとりのはずの自分の部屋が、一瞬でパブリックな場所に変えてしまう。
今の世の中って、簡単につながることができるからこそ
誰かとつながっていないと
すごい不安になったり、寂しさを感じたりするのかもしれない。

ちょっと前までの自分がなりたくなかったパソコンオタクのように
なった自分がいたと気付いたので、パソコンとの向き合い方を変えようと思う最近。

ということで、twitterはしばらく放置。
skypeは必要最低限にする。
mixiも使用頻度を減らしたいけど、、情報のソースだったり
連絡とかもあるので、それは無理。

ブログは、自分の中でいい向き合い方をしているので全然問題なし。


次回に続く...

ラベル:

2008年12月19日

光をつかまえることについて








光をつかまえるということ。

僕たちが普段見ているものはすべて光の現象にすぎない。

といいうのが科学的な見解らしい。

その光をつかまることができたのなら

どんなに気分がいいことだろうか。

秋山さんも言っていたけど

なんでそこに光があるだけで、美しいと感じるのだろうか。



今日の夕焼けはきれいだった。

雲が赤く染まって

太陽が落ちる空は黄色くなっていて

そんなきれいな光をつかまえたいと思った冬。

ラベル: ,

2008年11月23日

ある晴れた朝にでも




デザイン≠広告

だとつくづく最近思う。

ラベル:

2008年11月19日

ワタシアナタアコガレデス




昨日は葛西薫さんの特別講義。
ユナイテッドアローズの広告を中心に、
ジャンルイジ・トッカフォンドのイラストレーションとアニメについて
お話しして頂きました。

いい話聞けたなぁ。

ほんとに葛西さんの作るものは
葛西さんの人柄がでていると思う。

前から思っていたけど
サン・アドに入れるものなら入ってみたいと思うよ。


ラベル:

2008年11月17日

メモ




この前の金曜日に山本さん(女)と話していたら
おもしろい話を聞けたので、
忘れないようにメモ。


その1

昔の課題で、擬音語擬態語をビジュアライズする、というものをやっていたらしい。
日本語は擬態語や擬音語が他の言語と比べて多い。
雨が降る、といっても
しとしと降る、とか
ざぁざぁ降る、とかいろいろある。
それらのことばのもつイメージをビジュアルで表現しよう、という試み。

しかし、そのときに韓国からの留学生が先生のところに来て
次のように言ったそうな。

擬態語、擬音語の意味は理解できるが
それらのことばのもつイメージはわいてこない。

僕に限らず、日本人なら、
風がぴゅーぴゅー吹いている場面だったり
ゆらゆらカーテンがゆれている場面のイメージを
なんとなく想像できると思う。

でも、それって日本語を母語にしてる人たちの特徴らしい。


その2

最近の流行として
バイリンガルにするために赤ちゃんの頃から、英語を勉強させる親が増えてきている。
しかし、そのようにして育てられた子供は幼児期になると
自律神経失調症のようなものになる傾向があるらしい。
検査すると、他の子供と比べて脳波が違うため
それは性格ではなくて、一種の病気(?)みたいなものなんだってさ。
その原因として挙げられるのが
バイリンガル教育なんだけど、
僕たち日本人は日本語で生活していて
普段の生活では英語を必要としない。
でも、塾に行っている間は英語しか通じず
それ以外では日本語しか通じない。
その意識的な使い分けを赤ちゃんとか幼児にはできない。
その言語によるコミュニケーションのフラストレーションが
人格形成だったり発育におおいに影響するそうな。

もし子供ができたら、小さい頃からバイリンガル教育をしようと思っていた僕は、
検討してみようかと思ったね。



で、2つの話を聞いて思ったのが
人間の思考というのは、使用する言語によって大いに影響されるということ。
高校の時に、倫理ででてきたレヴィ=ストロースが構造主義の大切さを語っていたのをずーっと覚えている。

「人はみんな、自分が所属している構造(国とか言語)を通して事物を分析し、理解している。」
とか言っていたかなぁ。

「専門用語を使うと、それがわかる人の間でしか共通理解を得られない。
だったらいっそ専門用語をなくしてしまえば、
みんな同じ立場にたつことができるんじゃないか。」
みたいな事を言っていたような気がするけど、
記憶が不確かなので、間違っていたら誰か教えて。


表現されたモノとしてのビジュアルは、ノンバーバルなんだけど
僕たちは日本語というフィルターを通して思考し表現するから、
そこには必ずバーバルな問題が孕んでいる。
その問題をどう受け止め、解決するかは検討中。


メモ終わり。



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2008年11月1日

点から線へ 線から面へ


最近タイポの授業で
文字のトレースだったり、
ロゴタイポをつくったりしているのだけれど、
タイポグラフィだけじゃなくて
他にも通じる部分があるなぁって思った。

2年生になってから
1年生で勉強した事が繋がっているということを実感して
友達と朝まで
「点から線になって、面になるということはどういうことか。」
というテーマで激論をかわした事があったけど
久々にこのことを実感したなぁ。

というのも、
タイポグラフィってほんとに1ミリ以下のレベルで調整してく作業で、
注意してみないとよくわからない単位で細部をつめていく。
でも、並んだ時の全体の印象も大事だったり
全体と細部の関係でできているものなんだよね。

それで、実際に作ると先生から細かいだめだしが連発される。

細部と全体について言われた時に、
予備校の時のデッサンと一緒じゃん!って。

文字というのは図形なので
図形を扱うグラフィックでも同じ事なんだよね。

イラストを描くにしても
もっともっと細部にこだわることができる、っておもう。

前に話を聞いた皆川さんの話にしてもそうだけど
それぞれ独立した点でも
それが繋がって線になって
線が増えて面になって
トータルで物事が出来上がっていくし
そういう視点がだいじなんだなぁって。

自分に生かせなかったら無駄になるだけで、
無駄なものは、何もない。
ってのがポリシーなので
そんなことを再確認したのでした。


この時間に書く日記は
適当になってしまう事が多いねぇ。
それでも、いいや。


ラベル:

2008年10月29日

TDCタイプセミナーに行ってきた。


この感じ結構好き。
これでもっといろいろできそう。



今日TOKYO TYPO DIRECTORS CLUB (TDC)のタイプセミナーに行ってきた。
講師は小林章さん。ゲストで菊地敦己と柿木原さん。と嘉瑞工房の高岡さん。
先週も小林さんの話を聞いたけどもう1回。
多摩美に来ること自体、すごいことなんだなぁって思った。

15:00から東京工芸大だったので、
その前に展示も観てきた。
ほんとは一緒に行くはずの友人2人にボイコットされ、ひとりで。

はじめにブルーマークのカフェに行ったら平日18:00スタートでやってない。
気を取り直して、秋山花さんの個展に。
やっぱりいいイラスト描くね。
記帳を観たら多摩美関係者の名前が結構あった。
そのあと、ヘルベチカ展へ。内容は、まぁね、って感じ。
それから東青山に行くも、定休日。

そこから、中野へレッツ&ゴー。


セミナーはというと、内容は多摩美のときと似たような感じだった。



話の中で印象に残っていることを書くと次のようなこと。

 欧文を使う時に、日本人とネイティブという2つの対立項として考えがちだけど、
ラテン語を使う国々でもスクリプト体の書き方が違ったりする。
例えば、Tがベルギーとアメリカでは同じものに見えないくらい違うんだよって。
ある程度基本を抑えていれば、国それぞれのルールがあってもよい。
なので、日本人とネイティブという固定観念はなくした方がいい。

 フルティガーの机の上にある黒い紙の切り絵の写真をみせながら、
「みなさんも切り絵をやってみればいいよ。それで、白と黒の関係がわかるから。」と。
つまり、文字の間の白い形が大事なんだよ、ということ。
この話は欧文書体に載っていたけど、切り絵の例は出てないなかったような気がする。

 欧文を組む上でやってはいけない事とは?との質問に対して、
○合字があるのに、それを使わない。
○間抜け引用符 → " "
○ピリオドの後に、全角をあける事。

 使いやすいフォントとかは特にない。
そのときに、どういう目的で使うのかによって、組み方とフォントを決める事。

 何がよくて何が悪いのかわからないのなら、
古本屋にでも行って、本をいっぱい買ってくる。
その本の中から、自分でいい本と悪い本を見極めることが大事。
いいものをいっぱいみることが大事。

 組版をする上で、活版でもスペーシングとかに気を使ってた。
Macなら活版で出来なかった事までできる。
1字1字詰める事は当たり前。
今のデジタルの組版は汚いのが多い。
文字を組んで、お客様に読んで頂くという気持ちでやる。
やるかやらないか。


高岡さんが次のように言っていた。

金属活字の時でさえ、同じ書体でも級数によって微妙な違いがあった。
今になって、デジタルでAdobe Caslon, Big Caslon, Caslo などでるようになった。
小林さんの登場で、やっとデジタルが活版に追いついてきた。



と、ざっくりとしたまとめです。
まとめというか、箇条書きです。

今回のセミナーを聞いて、
きれいに文字を組めるようになりたいと思いました。
フォントに詳しくなろうと思いました。
いいフォントが欲しくなりました。

そういえば、レクチャー中に小林さんが
「そろそろワークショップでもやりますかね。」
と、何回か言っていたので、もしかしたら来年あたりあるかもね。

文字に対してのモチベーションは上がったので
明日の組版の授業がんばります。
とか言いながら、今日のタイポの授業休んでしまってる。
竹下先生、ごめんなさい。

ラベル:

2008年10月24日

砂漠にふる雪




今月のアイディアの特集の中で秋田寛が
最近の世の中は、ゆるい、と言っていた。
デザインは時代を映すものだから
そういう世相を反映して、ゆるいデザインが最近多いと。
亀倉雄策とかの時代は、ダイナミックで力強いデザインが良しとされていたけど
今はクライアントから、力強いからだめと言われることもあるとか。

個人的な好みとしては
デジタルのものよりもアナログの質感の方が好きだね。
手触りがあるというか、手垢のある感じがココロに響きやすい。
最近はひたすらアナログだけれど
デジタルも使うし、好きな部分も結構ある。

確かに、一昔まえに比べたら手書きの広告や
味のあるデザインが増えたかもしれない。

90年代にPCが普及して、CGが目新しくて
それを使えば何をやっても新しく見えたという時代があった。
でも、今はだいぶ出尽くしてきてる感じがして
昔ほどの新鮮さだったり、驚きは無くなってきていると思う。
(その中でもWebとかメディアアートの分野は技術の進歩で
今でもぐいぐい突っ走ってる感じはする。)

そんな中で、原点回帰ではないのだろうけど
PCを使わない表現だったり、使ったら出来ないものを作ろうみたいな流れがあって、
それがたまたま今の時代とマッチしたのではないかなぁ。


Webの台頭によって紙媒体のものは衰退してきているし
その流れはかわらないだろうと言われている。
CDも売れなくなって、デジタルで配信される割合もかなり高いし。
これからますます技術が進歩し、ユビキタスやらナノテクやら
世の中がデジタル化していくのは間違いないだろう。

しかし、そのような状況の中でも、人間が身体を持って生きている以上
物質として存在する紙は決して無くならないだろうし
アナログというものはシェアは縮小するとしても必ず残ると思う。

デジタルメディアには、デジタルメディアに適した表現があるし
本とか雑誌とか物質として存在するメディアには、そのメディアに適した表現がある。
(Webの出現で、特殊印刷が前よりも注目をあびるようになったとか)

これからの時代、デジタルに弱いことが不利になるかもしれない。
眼も向けずクリエイターとして生きていくのはどうかとも思う。

でも、デジタルフォントが普及しても、
活版印刷屋さんが全部潰れないように
その道の先端にいればなんとかなるんじゃないかなぁ。

デジタル+アナログ=デジログ
みたいな考えかたとかあっても良いと思うし。


これから先、ゆるいブームが終わるのは確か。
でも、次にくるブームが何かなんて考えることに興味はないなぁ。

デザインとかアートとかって、
今に対してのアンチテーゼとして、新しいものが生まれてきている。
そういうことを踏まえると
ブームを予測するのではなくて、
時代とその先を見極めて、新しい提案をしていくしかないんじゃないかなぁ。。 





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2008年10月22日

青空に満天の星




僕たちが普段みているものって
ほんとに存在しているのか。
存在とリアリティについて考えてみた結果、
こんなものができちゃいました。



今日、多摩美に皆川明が来た。
皆川明はテキスタイル(ファッション)デザイナーでmina perhonenの人。

個人的にかなり大好きなデザイナーで、
テキスタイルの柄とかがいいよ、って思う。

ここのブランドはVIにもチカラを入れていて
ロゴは菊地敦己で、他にも仲條さん、平林奈緒美をアートディレクターとして
起用していたので結構知っていた。

そんな訳で、必修の授業をほっぽり出して聴講しにいってきました。

皆川さんが語る事と、自分が今考えている事とがリンクすることが多くてため息つきっぱなしだったよ。

ここから真面目モードに。
長いかも。




今日のタイトルにもなっている
「青空に満天の星」

星は夜にしか見えないけど
青空のときにも、確かにそこに星は存在している。
「存在している=見える」ではない。
見えない事で忘れられてしまったこともあるはずだ。

上述したものは、次回のコレクションのテーマになるらしい。
この言葉を聞いた時に、minaが透明な空気感をもつ理由が少しだけわかったような気がした。

皆川さんはいつも社会に対して鋭い視点をもっている。
社会に対してのアンチテーゼとして、ファッションというメディアで、何かを伝えようとしているのではないか。

時の経過によって色褪せることのない服を目指し、服作りを進めるというのがminaのコンセプト。
そのために、自社でファブリックを開発、管理し、
何年も着ることができ、壊れた所があれば直すことができるようにする。

今のファッションの流れで「クイック・アンド・レスポンス」というものがあるらしい。
クイック・アンド・レスポンスとは、ラグジュアリーブランドや流行最先端のものを、コピーしてそれをすぐに市場に流通させること。
それは、ファッションの中に限らず社会全体に蔓延しているかのように思える。
合理的で即効性のあるものを求め続けた現代社会。
その場しのぎで作られたものは、あっという間に飽きられ、捨てられ、そしてまたその場のしのぎのものが作られる。
大量生産大量消費という方程式が変わることは、まだない。

広告にしろ、デザインにしろ、短命である。
それは、市場と密接な関係にある宿命なのかもしれない。
消費者を振り向かせるための手段としてデザインが使われてきた。
今の日本で市民権を獲得したデザインは、ただの見かけの問題であり、デザインという言葉が安売りされているように思える。

そのような現状の中で、このままではいけない、と声を上げるデザイナー達も出てきているのも事実。
もう1度社会を、デザインを捉え直そう、という動きを最近よく目にするようになった。

即効性、合理性に辟易した一部の世の中の人たちが、minaというブランドに注目していったのは自然なことだと思う。

ファッションは日常的であるべき。
ニュートラルな服ではなく、エモーショナルな服を作りたい。
レディメイドだけど、パーソナルなブランド。
と、皆川明。
生地から服を作り、販売に至るまで自身のフィロソフィーを貫き、mina perhonenという1つの表現で多くの人を魅了している理由が納得できた。



私たちが服を買う時に払うお金は、そのブランドの「信頼」に対して払われている。
原材料と加工費、人件費にだけお金を払っているのではない。
ブランドは服をつくり、広告をうち、服を売る。
服の値段は、ブランドの信頼に対しての評価である。



テキスタイルという異分野で、専門用語が頻出した講義だったけど
思考から形になるまでのプロセスなど
どの分野でも言えるようなことがたくさん聞けた。
いい講義だったよ。

デザインはその人の人間性が如実にでる。



大抵のことは、誰にでもわかることばで説明できる。
というのが僕の持論ですが
たまにはこういう文も訓練で書いてみたくなったので
お許しください。

読んでくれて、どうもありがとう。

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2008年10月20日

マスからニッチへ



HOPE



100万人を抱きしめることができないから、コピーを書く。

広告の仕事は、100万人や、1000万人を相手にするコミュニケーションで、それは1対1とはだいぶちがう。
1対1なら言葉以外にも、みつめあうとか、抱きしめ合うとか、強力な伝え方があるだろう。
でも、広告で、100万人相手に、いちいち抱きしめてまわるまけにも行かないよね。
だから、そのかわりに言葉というみんなに伝える道具が必要になるんだ。


— 谷山雅計(コピーライター)のお言葉 —



広告のコミュニケーションは、不特定多数、マスに対しておこなわれるもの。
マーケティングでターゲットだとか
訴求対象を限定しろとか
データとか数字が大事にされている。
広告の役割は商品の販促効果を狙ったもので
マスに対して発信することは当たり前。

でも、広告に接するときは
広告と自分の1対1で
作り手はそこを意識するから、
実際のところ難しい。



広告はマスというのが前提で、
でも、ニッチに対してのコミュニケーションもあっていいんじゃないかなぁ、って最近思うんだよね。
広告をメディアとして選択して伝達するなら
成立するかどうかとか、いろんな問題を孕んでいるけど
不特定多数から特定少数のものがあってもいいんじゃないかと。


特定少数だから、自分がターゲットからはずれていたら知る訳もないから
世の中にどれくらいあるか知らないけど。
インビがないと入れないアルマーニのパーティーとか行って
宮崎あおいに会ってみたい。。


最近の広告業界では、
関係育成型とよばれるものが流行っているらしくて
エンドユーザーとどのように商品の関係を作っていくのか、ということが重要視されているらしい。
商品のベネフィットしか語られなかった広告が変わってきているのも事実。




個人的には、みんなに好かれたいとは思うけど
誰かわかってくれる人がいたらそれでもいいやぁ、などと思う訳です。
だから、抱きしめ派だねぇ。

そんなコミュニケーションっていいよね。



ラベル:

2008年10月19日

職業としてではなく、生き方として選ぶ。




職業としてではなく、生き方として選ぶ。

このキャッチフレーズが最近の僕のスローガン。



昨日先輩と話していて、背中を押してもらえた気がする。

大学入った時はまだ何も知らなくてツンツンしてた。
でも、少しデザインとかそんなことがわかるようになってきて
自分の無力さを痛感した。

自分に何もないのに、コネクションを広げようとしたって
広げられるもんでもないし、意味があるんだろうかとか思ったり。

それなら今は自分を磨こうとか思っていた。


でも、今いる環境が大学の中という限られた世界しかしらないで
ちょっと外でも覗いてみようかなぁとか思うようになってきた。


そんなことを思っていた矢先に、
自分の無力さを学内で感じていたってだめだよ。
外に出てみれば、もっと無力さを感じることができる。
今、中にだけいるのは、もったいないよ。
(みたいなこと言われたような気がするけど、詳しくは思い出せないので・・・)


こういうこと言って貰えて、すっきりしたよ。



思っているだけじゃだめ。
思い立ったが吉日、だねぇ。
(↑仲の良いトモダチのスローガン)

ラベル:

2008年10月15日

朝をむかえにいこう





最近自分のスタンスとかについて考えてきたけど
うーん、いまいちはっきりしない。

ぼんやりとはしてるんだけど
クリアにはみえてこない。


人にはそれぞれ好みがあって
ある人が褒めても
ある人はけなす。
それはしょうがないことで
むしろ、素敵なことだと思う。

そこで大事なことは
「自分を見失わないこと」だとあらためて思った。

じぶんを信じて突き進め、じぶん。

あっちにいったり、こっちにいったりするんじゃなくて
我慢することも大事なんじゃないかと。


今日(昨日)、名前も顔もしらない先輩たちのポートフォリオを観る機会があったのだけれど
いい刺激になった。
おもしろいけどこれってどうなの?みたいなのもあったけど
みんなが普段気付かないところに気付いて
それを表現としてきちんと形にできている。



制作するときに重要だと考えているのが
「発想」と「定着」

発想は上にも書いたような
今までなかったものだったり、新しい価値感だったり
いわゆるネタになるもの。


定着はそれがきちんと表現としてはまっているか。
絵でいうところの、色がチューブからひねり出したような色が浮いてみえる、生っぽいということ。
CGがいかにもCGっぽくて嫌な感じがする、とか。
これは直接的な表現の定着であって
アイディアもきちんと定着してなければいけないと思う。
考えはいいんだけどね、とか言われるたぐい。
別の言い方をするなら、コンセプトがきちんと落とし込まれて、表現されているか。


この2つがうまくいくと
見るに耐えうる強度がでてくるんだと思う。



今まで自分がつくってきたなかで
ここまでできたのってないなぁ。

だからといってカチッとしたものを作ろうとすると
手が止まってしまうタチなので
今は発想の元になるアイディアを出す状態。
ふろしきをひろげてみる。


量がない質はない。
と森山大道が言っていたので
しばらくはこのスタンスでいきたいと思います。

ラベル:

2008年10月10日

Sit





シンデレラってハッピーエンドで終わると思っていた。

でも結婚してからいろいろ大変なことがあるかもしれない。

庶民と貴族の差を埋められなかったり
王子様が突然病気で死んじゃうかもしれないし
姑にシンデレラがいじめられちゃうかもしれないし。
王子様に恋をしていたどこかのお姫様は涙を流すかもしれない。



ジグソーパズルがあるけど
もし1つのピースが、もうパズルなんて嫌だ、と言って
行方をくらましたとしたら
そのパズルは完成することはない。

他のピースたちはえらい迷惑だね。

ピースが集まってパズルができているから。




情報や事物には、語られている文脈があり、前後があるということ。
それ単体では決して存在せず、
それを取り巻く周辺環境が存在するということ。


正面しか見えていない家でも
少し横にずれれば、家の側面が見えるし
東京タワーに登れば、豆粒みたいに家が見える。


多角的な複数の視点を持つ事によって
物事の見え方ってだいぶ変わるよね。


そういう考え方がとっても大事なのかもしれないなぁ。


ある人にSitした今日、思ったのでした。






ラベル:

2008年10月8日

おーぬきさん





今日は大貫卓也さんの特別講義がありました。
去年も聞いたけど今年も少しだけ参戦。

うさんくさい声だけど
話はわかりやすくて
やられたね。

作品はそこまで好きではないんだけど
やっぱりすごいよ。尊敬できるなぁ。

社会における広告の在り方とか
いいキーワードが結構でてきた。


それでもってあと4時間後には深澤直人さんの特講。
たのしみだぁ。


ラベル:

2008年10月7日

おいこせおいぬけ






これからの事についてしっかりと考えなければいけないなぁ。

飽きっぽい性格なので
ちょっとかじっては新しいことにとびついて
これといったものがないなぁ。

器用貧乏なのかねぇ。
予備校の時からそうで
ずば抜けたものがないんだよね。
高校のときのサッカー部の監督にも言われたなぁ。
高校の美術の恩師にも言われた。

石の上にも3年というように
少しは辛抱も必要だね。

考えても答えがでないから
考えても手が動かないから
とりあえずつくろうと思ってきたけど
やり方を間違えてきてしまったみたいだ。

考えないようにしてただけなんだ、きっと。

僕がこうなってしまったのも
いつも近くにいる人へのささやかな反抗なのかも知れません、笑


最近へこむな。
秋は好きなのはずなのに。




ラベル:

2008年10月5日

animation


One Day.


課題で作ったアニメーションをmixiにアップしてみた。
passは0512.
暇な方はどうぞ。。

ラベル:

2008年10月3日

君は何がやりたいの?




「君は将来何がやりたいの?」
今日ある人とご飯を食べてて聞かれた。

「僕、なんでもいいです。」

ちょっと前まで広告の仕事がしたくて
でも広告の世界を知って冷めちゃって
かと思えば、また熱したり…。
気分屋の僕はわかりません。


で、今思うことが、ものをつくっていられればいいや、と。
自分の核になる部分はグラフィックで
他にもいろいろやりたい。
それが、小さなプロダクトだったり
映像だったり、なんかだったり。
印刷された平面、マテリアルとして物質として存在するグラフィックに
もちろん凄い興味を感じるけど
それだけじゃなくてもいいや。



自分が好きなものをつくって
それが誰かの側にあって
誰かのしあわせにちょっとでもはいることができたら
それで僕はいいのです。

誰かがよろこんでくれる、ということがあるのなら
それで僕はいいのです。

その為には、もっともっと自分を高めなければいけないね。


なんでもいい、じゃなくて、なんでもがいい。



さぁ、いよいよ10月。
きもちのよい季節だね。

ラベル:

2008年9月25日

ことば について


 あおいとり


最近僕の中で、コピーブーム再燃です。
もともとことばを書くのも好きだったし
読むのも好きだった。

今美術大学という場所でデザインというものを学んでいるわけだけど
僕のもともとの志望学科は建築学科だった。
でも、「自分のつくる建築、空間は全てにおいてことばで説明できなければならない」
という持論の建築家に会って
「ことばにできないことだってあるじゃん。そんな息苦し世界なら建築なんてやってられない。」
と若かりし日の僕は方向転換。
今考えると当たり前ですけどね。


それで、気がついたらグラフィックデザインを勉強していて
その世界でもプレゼンテーションがあったり
ノンバーバルなのにバーバルが必要とされるわけです。
クライアントとデザイナーという関係がある以上それは必然で。
大学に入って、
全て理論明快にずばっと物を語れるようになりたいと思っていた。
でも実際、現役バリバリのデザイナーでも
ことばにならないことだってある、
って言っちゃてるものだから
それでもいいんだ、って思っていたわけです。

思考の停止。エポケー。

でも、またまた最近思うのがことばは大事。
やっぱり自分の思考を言語化するのは大事。

感覚を言語化するのって難しいし
ずべてが言語化できるとも思っていない。
ことばにした時点でそれが嘘くさくなったり
実際のものとはかけ離れて違うものになることだってある。
ことばは、いつも気持ちに足りない。

でも、それを理由にしないのもなぁって思う訳です。
だって分析とか研究とかする場合に
なんとなくより
ロジックがあった方が収穫が大きいから。

他にも形のないものをことばという輪郭を与えることによって
自分の頭の中もスッキリするし。
という理由もあってブログを始めてみた訳です。




もともと、ことばは
「ロジックを語ることもできる」というだけで、
ロジックを述べるために生まれてきたんじゃないんでね。
− 糸井重里 −


と言っている糸井さんのことばはロジカルだけどリリカルで
僕の憧れな訳です。

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